こんにちは、けいみるるです。
今回は、伊賀焼とは何かについてです。
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伊賀焼の耳ありです。
緑色の独特の色味や、風合いをかもし出していますね。
*近畿地方
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三重県伊勢市です。
伊勢市は神宮ご鎮座の町として歴史・文化の名所を感じられる恵まれたところです。
比較的温暖な気候と豊かな自然に囲まれています。
伊賀焼とは何について書いていきます。
伊賀焼の見るポイントは
伊賀焼は耐火性が高いので土鍋など、火にかける鍋に適している焼物です。
高温で焼くことによる焦げや緑色のビードロなど、独特の色味や風合いが感じられます。
伊賀焼は信楽焼と同じ、古琵琶湖層の陶土を使っています。
原料である粘土には、蛙目(がいろめ)粘土と木節(きぶし)粘土という2種類の特徴があります。
蛙目粘土は、粒子が粗く重いです。
木節粘土は、粒子が細かくて軽いです。
生産されていた初期には、見た目が似ていることから、区別がつきにくかったようです。
三重県伊勢市は、伊勢神宮の鳥居前町として発達した都市です。
神都の異名を持って言います。
かつては宇治山田市と名乗っていました。
伊賀焼の歴史とは
三重県伊勢市を中心に作られていました。
歴史が古く今から約1200年以上前の天平年間729〜749年、農民が農業用に壺や生活雑器を、焼いたことが始まりとされています。
伊賀焼は立地的に大和地方に近かったことにより長く文化の中心にありました。
奈良時代では、伊勢の皇大神宮に献上したという記録が残されています。
室町時代末期には太郎太夫・次郎太夫が1528〜1532年の享禄の頃に丸柱で伊賀焼を、再興したといわれています。
「伊賀焼の創始者」ともいわれています。
桃山時代には、侘び寂びが大成されると伊賀焼の持つ風情が、千利休ら茶人たちに好まれました。
大名間の献上品として珍重されました。
1669年藤堂家三代・高久の時に原料である白土の陶土の濫堀(みだりほり)防止のため、御留山の制が設けられて、陶工は信楽へろ移り伊賀焼は衰退していきます。
江戸時代中期には、京都や瀬戸の陶工を招いて釉薬の技術を学びました。
日用雑器が作られ復興をしていきました。
この時期を再興伊賀と呼びます。
このころから、茶陶はほとんど焼かれなくなり、行平鍋や土鍋などの耐熱厨房食器や日用雑器が、焼かれるようになりました。
1982年11月には国の伝統工芸品に指定されました。
伊賀の特徴・魅力は
小石混じりの素朴な風合いが魅力です。
釉薬は焦げやビードロを加えて、耳と呼ばれる装飾を施すのも特徴があります。
降り掛かった灰が緑色のガラス質になります。
対価温度が高いです。
厚みや手触りや色が均整ではない所が魅力です。
よく似ているといわれている信楽焼との違いは、伊賀焼に耳あり、信楽焼に耳はなしです。
伊賀焼には耳を持つ作品が多くあるからです。
高温で何度も焼成する伊賀の七度焼といわれる技法で作られています。
耐熱性と蓄熱性が高いので土鍋などが最適です。
伊賀焼の土
古琵琶湖層と呼ばれる地層から採れる土です。
三重県伊賀市周辺の阿山郡の槙山・丸柱周辺・上野市・名張市で採れます。
伊賀焼の今は
毎年、秋頃に伊賀焼陶器まつりが開催されています。
昭和53年青年陶器研究会が、伊賀市内にある各蔵元の作品を集めて開催された、蔵ざらえ大売り出しが陶器まつりの始まりです。
他にも、長谷園でも毎年5月に窯出し市が開催されています。
色々なイベントが行われ賑わっているようです。
以上が、伊賀焼とは何でした。
まとめ
伊賀焼とは、使われている土は古琵琶湖層から産出されているもので耐火性が、非常に高いという特性を持っています。
土鍋など、耐熱性と蓄熱性を持っている器が作られています。
緑のビードロ釉の景色や焦げ肌が見どころです。
三重県伊勢市に訪れた際は、伊賀焼を見にいきたいですね。
散策の参考になればうれしいです。
最後まで見ていただきありがとうございます。
次回は、天草陶磁器とは何かです。
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