こんにちは、けいみるるです。
今回は、日本の焼物てどんな器・1についてです。
縄文土器
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縄文土器とは、日本の石器時代の土器の呼称で、網の目の文様が入ったものをいいます。
弥生土器
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弥生土器とは、軟質素焼きの土器で、形や装飾が簡潔であり高温で焼かれていて明るく硬いです。
日本の焼物てどんな器がを詳しく書いていきます。
日本の焼物の始まりは
縄文土器と弥生土器から日本の焼物が始まりました。
縄文土器とは網の目の文様が入っています。
弥生土器とは軟質素焼の土器です。
縄文土器に比べると形や装飾が簡素で、高温で焼かれて明るくて硬いと評されました。
実際は一概にいい切れないところがあり、地域ごとに発展していきました。
日本の焼物の歴史は
日本の陶磁器は1万2000年の歴史があります。
日本が1番早いです。
日本が1番最初に焼物を作ったということは、あまり知られていないようです。
縄文土器から弥生土器へと展開していきます。
残念なことに、世界で早く焼物を作れたのにその後1万年間、技術革新が全くありませんでした。
ですが、縄文土器には見事な様式展開があります。
草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六期に分かれます。
火焔型土器は中期に生まれました。
縄文土器の特徴でもある縄目の文様からその名が付けらてますが、文様が付けられたのは草創期の後半からです。
初めの2000年ほどは文様は見られません。
文様としては脇役です。
縄文土器の手法は他の多くの世界と変わりません。
縄目はその余白を繕っているだけです。
1万2000年前から中期に至るまで、6000〜7500年ほど立っています。
あまりにも長く時間がかかりすぎました。
これが縄文土器の現実でした。
野天で焼く粘土細工です。
そこからは一歩も出てこなかったのが、縄文土器と弥生土器の特徴といえます。
しかし、一方で見事な様式革新があったこことは、間違いありません。
古代の日本人は芸術的民族であったことを暗示しています。
縄文時代後期は今から4000年くらい前になると、縄文を擦り消して文様の一部を線で盛り上げるのではなくて面を表す方法が中心になります。
そうして晩期を迎えて紀元前3世紀には、弥生土器へと変わっていきます。
基本的には、縄文土器と変わりません。
ですが、造形するしせいが変わりました。
弥生土器前期の土器を代表する土器は、遠賀川式土器です。
九州の福岡県の河川敷の遺跡から名付けられました。
弥生時代は歴史の始まりであり、現代に通じる日本文化の基本です。
縄文土器の文化は、弥生土器の文化、弥生時代によって切り離されました。
九州・福岡を中心とした須玖式土器と、畿内を中心とした船橋期土器は、同じ弥生時代中期、紀元前後今から2000年前に盛行した日本文化の両雄を、象徴してくれる見事な造形物であります。
以上が、日本の焼物てどんな焼物でした。
まとめ
これが、日本最初の陶磁器の始まりですね。
誰もが知っている、縄文土器と弥生土器です。
始まりが日本であることも、驚きました。
陶磁器といえば、中国やヨーロッパだと思いんでいました。
日本から、世界に広がったんですね。
参考になれば嬉しいです。
最後まで見ていただきありがとうございます。
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